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蒼き焔の彼方に  24


その異様な光景に、和久は思わず息を呑んだ。

彼女は、寝かしつけた時と同じ服装のままそこにいた。
否、格好は同じでも様子は明らかに違う。デニムには泥がはね、薄いクリーム色のシャツにはあちらこちらに鉤裂きができていて、何か分からないような染みがいたるところに付いている。足は裸足のまま泥だらけで、履物はおろか靴下さえ履いていた痕跡も見当たらない有様だ。
そして何より、いつもはきつすぎるほど強く後ろに束ねられている長い黒髪がばらばらに乱れて埃や枯葉が絡みつき、縺れ放題になっている様が、彼女の尋常ならざる状況を物語っていた。

「開けて、誰かここを開けて。早く!」

彼女はそう叫びながら、金属でできた重い扉を素手で破らんばかりに殴り続けていた。しかも彼女が叩いているのは正確には本宅の玄関ではなく、そこからずっと離れた場所にある、土蔵の扉だ。
蔵の外から見える部分、地上階は骨董品や絵画、それに使われなくなった家具などの収納庫になっているが、地下には会社の書類庫があり、その一部は金庫となっている。
そして、公には知られていないが、その隣、書類庫とは厚いコンクリートに隔てられた部分に瀧澤家の代々の当主を祀った霊廟が存在する。
地下部分は外からでは分からないようになってるが、実際は地上部分の数倍の面積があり、その所以で、地下も含めて蔵全体が耐火構造になっている。
人の手程度では、簡単においそれと破れるような代物ではない。

「止めないか」
手から血を流しながらも扉を叩くことを止めない聖子を、和久は後ろから羽交い絞めにしてその場から引き離す。
「放して。ここを開けて。でないと……」
「落ち着くんだ」
「いやっ。放して」
聖子は身を捩りながら、必死で回された腕に抵抗する。
「この扉はそんなことでは開かない。一度セキュリティーを解除しないと中へは入れないんだ」
道理を説いて聞かせるも、錯乱状態の聖子には通じない。
「ここを開けて。私を中に入れて、お願い」
腕の中で暴れる彼女を押さえ込んでいた和久の背後に人の気配がした。
「総領」
呼びかけてきたのは関口だった。
病院で別れた後、サダを送って行った彼はそのまま自宅に戻ったものの、警備会社からの連絡を受けてすぐにここに駆け付けたのだ。遠目に正門から大回りをしたであろう警備会社の車の回転灯がこちらに向かって来るのが見えた。
「後は私が。ここはひとまず東様を連れて、離れに戻られた方がよいかと」
確かにこの状況で聖子を人目に晒すことはしない方がよさそうだ。まだ何とかして扉の方に近づこうともがいている彼女の挙動不審な様子は、警備員たちの目には奇異なものに写るだろう。
「わかった」

和久は暴れる聖子を抱えるようにして本宅の中に引きずり込むと、急いで回廊を抜けて離れへと向かったのだった。



本宅から離れるにしたがって、聖子はまるで気が抜けたように大人しくなっていった。それと同時に意識が混濁しふらつき始め、離れに戻った時には、ほとんど彼に抱かかえられるようにして部屋まで運ばれた。
ベッドに横にならせた時も、軽く濡らしたタオルで汚れた顔や手足を拭う間も、抗う気配はまったくなく、その様子を見ながら和久は、先ほどの出来事は一体何だったのかと思わず首をかしげたくなった。

「しかし、まったく。何て無茶なことを」
本宅と離れの間は直線でもかなりの距離があるが、それでも歩きやすい廊下を使うだけ容易に着ける。反面、一旦外に出て、それから徒歩で本宅まで行こうとすると、かなり大きく雑木林や庭園を迂回するルートをとるか、その中を突っ切るかの二つしかない。
最初のアラームから二度目までの時間を考慮すると、彼女は恐らく後者を選んだものと考えられた。

敷地内に定期的に造園業者を入れて手入れをしてはしているが、それでも人の目の届かない場所は荒れてしまう。特に離れと本宅の仕切りのように広がる広大な雑木林はその良い例で、下草が刈りきれないまま鬱蒼と藪が生い茂っている箇所が多く残っていた。
彼女の衣服のあちこちに引っ掛けたような裂き跡があるのは、多分その中に無理に分け入ったからに違いない。足の所々に傷があるのも、裸足で何かを踏んだりしたためだろう。

なぜ彼女はそんなことをしたのか。
和久はそんなことを考えながら、無意識に彼女の髪に絡まった枯葉を取り除いていた。
通常の時の聖子を見る限り、そんなことをするタイプの女性には到底見えない。常識的で真面目。どちらかといえば融通の利かない、四角四面な思考の持ち主のように思われた。
そんな彼女が形振り構わず、常識では考えられないような行動を起した。その上、行き着いた先があの土蔵だ。
あの場所には何か強い因縁があることは、土蔵の持ち主であり、将来霊廟に入ることになるであろう当事者でもある彼はよく分かっている。しかし、佳奈のように何かに取り憑かれたり、聖子のように強い影響を与えられたことがない分、警戒心は薄かった。


「……っ」
突然、髪を梳いていた手の動きが阻まれる。
驚いて見下ろすと、彼を掴んでいたのは、聖子の手だった。

「気がついたのか?どこか痛むところは?なぜあんな所に……」
気遣う和久の言葉を遮るように、彼女が起き上がった。

『どうして私を止めた』

聞こえたのは、彼女のものであり彼女ではない声。
その声を聞いた和久の背中に戦慄が走る。
『なぜ私を止めたのだ。私はあの男に会わねばならぬ。でなければ、私は、私は永遠に……』

あっという間に態を入れ替えられた和久は、今の今まで眠っていた女性のものとは思えない強い力でベッドに押し付けられた。
「どうしたんだ、一体何を……」
彼女に圧し掛かられ、驚きに目を見開いた彼を見下ろす聖子の瞳が、一瞬淡い銀色に光る。
それを見た彼は、自分に覆い被さる人影に鋭い眼差しを向けた。
「君は……いや、お前は一体何者だ?」
彼女の唇が僅かに開き、彼には思いもよらない名を告げる。

『汝、瀧澤の末なれば、聞き覚えがあるであろう。我が名は加津沙。
古の、失われた一族の、最後の巫女なり』




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